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被曝75年「原爆市長」が語るヒロシマ【前編】

08/11(火)  14:30 掲載

戦後広島の復興に尽力し「原爆市長」の名でも知られる元広島市長・浜井信三さん。被爆75年を迎える今年、浜井さんが家族と映った映像を大学の講演で被爆の実相を語ったとみられる肉声が新たに見つかりました。映像は1958年、そして音声は1967年とみられています。音声には75年前の8月6日に見た出来事、そして平和への思いが残されていました。

自宅の庭でゴルフのスイングをする一人の男性、この映像では、顔はよく見えません。しかし別の映像でその人物をはっきりと確認することができます。右から2番目のスーツを着た人物、戦後の復興に尽力し「原爆市長」の愛称で知られる浜井信三さんです。慰霊碑前で撮影したこちらの写真、映像と同じ日に撮影されたものとみられます。
浜井さんは1945年8月当時、広島市の職員で、食料を提供する「配給課長」でした。被爆の実相を語る肉声は8月5日の広島の様子から始まります。
【音声:広島市・浜井信三元市長】
「8月5日、これは非常に我々としては不気味な日だったんですけれども、向こうさんの飛行機がビラを撒いたということでございました。そのビラの中に8月5日に大きな土産を広島へ持って行くから楽しみにして待っておれというビラをまいたという噂が一週間くらい前からたっておったわけです、8月5日というのは危ないぞと、気をつけなきゃいけないぞという気持ちを我々は持っておったわけです。ところが夜の9時ごろになりまして、空襲警報が発令されました、「そら来た」といって私どもは身支度をしまして防空本部へつめました。しばらくしたら空襲警報が解除になりました」
その後、午前0時に再び、空襲警報がなり、浜井さんは市の防空本部へ向かいます。そして午前2時、空襲警報が解除されました。
【音声:広島市・浜井信三元市長】
「(自宅と防空本部を)行ったり来たりするのは面倒ですから、ひとつ役所で寝てやろうと思って、役所のソファーへころんどったんですけれども、蚊が多くてとても寝られない」
朝まで眠れないと感じた浜井さんは市役所にほど近い、広島市中区榎町の親族の家で寝ようと考えますが、夜中に起こすのは申し訳ないと思いなおし自宅へ戻ります。
【音声:広島市・浜井信三元市長】
「8時頃に兄嫁が干し物を干していたら、それが庭で大きな声でBさんが何かを落としたよと大きな声で言っているんです、飛び起きて、洋服へ手をかけようと思った瞬間でした、ピカッと目がくらむような閃光、伏せると同時にドッと爆風のようなものがやって参りまして、家を木っ端みじんに壊した」
原爆投下後、浜井さんはすぐに市役所へ向かいます。
【音声:広島市・浜井信三元市長】
「比治山橋の近所までやってまいりますと、むこうから雪崩をうつように、色んな人が逃げてきている、私と反対方向へどんどん逃げていく、みんな血相を変えているし、頭から血を浴びて真っ赤になっている人がたくさん、そして私を見ると「あちらのほうには火はないか」「お医者さんはないか」ということを聞いてくる、火もない、お医者さんもどこへ行けと教えてやろう思う答えも待たないでまたどんどん走り去っていく、何かに追われているような格好で走り去っていく。よく見るとみんな幽霊みたいな格好をしてですね、何かボロを持って逃げている、何を持って逃げているんだろうなと思って見ましたら、ボロじゃないんです、やけどをしてですね、皮が手の先へ垂れ下がって、そのままでどんどんどんこうして逃げてくる、その人たちに聞いてみると、全部「私の家に直撃弾が落ちました」とこう言っている、誰に聞いてもみんなそう言ってる」
広島市佐伯区、浜井さんの妻・文子さんの自宅から音声と映像が見つかりました。
【長男・浜井順三さん】
「実は昨年、母が亡くなりましてね、70年前のおやじのこういう資料がですね、出てきたんですよ」
去年7月、浜井さんの妻・文子さんが105歳で亡くなり、今年、家族が遺品整理をしていたところ見慣れない箱を発見。中から白黒とカラーの映像フィルムと、音声テープが発見されました。1958年に完成した原爆の子の像が写っていること、そして、撮影した親族の日記に、この年の9月に「浜井家と一緒に平和公園を訪れて撮影した」と書かれていたことなどから、白黒とカラーの映像は1958年。そして浜井さんの声は市長を引退した1967年5月以降、大学の講演で被爆の実相を語ったものとみられます。
順三さんの許可を得てフィルムとテープを預かり、TSSのスタジオなどで復元しました。
証言の中では落とされた爆弾が新型の原子爆弾であると知った経緯についても触れています。
【音声:広島市・浜井信三元市長】
「2、3日後に私、新聞記者に聞きました、これが原子爆弾なんだと、どうしてそれを知ったのかと新聞記者に聞いてみましたら、新聞社では、当時は禁止されておったんですけれども、地下室に短波放送をキャッチする受信機を備えていた、それでトルーマン大統領が広島へ原子爆弾を落としたという放送をしたと、それをつかんだんだと、こういうことでございます、原子爆弾というものを初めて私たちは知ったわけです」
その2年後の1947年、広島市長に初当選。そしてその年の8月6日、平和記念式典の始まりとなった第一回平和祭を開催します。この平和祭を開催した理由についても語っています。
【音声:広島市・浜井信三元市長】
「それはもう、全く原爆を体験した、そして生き残った市民の実感だったと思う」


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