原爆投下から1カ月後 もう一つの惨禍「枕崎台風」 土石流が病院襲う 情報が伝わらず被害拡大 広島
9/16(火) 20:00
原爆投下後の広島でおよそ2000人が犠牲となった昭和の三大台風・「枕崎台風」
あの日の一カ月後に起きたもう一つの惨禍を追いました。
あの日の一カ月後に起きたもう一つの惨禍を追いました。
<当時を伝える文献・大野町誌>
『それは原爆以来、』
『荒れ狂う瀬戸内海がシブキをあげている』
『家はパリパリと裂け出した』
廿日市市大野。80年前に広島を襲った「枕崎台風」の被害があった場所の一つです。
今月13日に行われた10年ぶりとなる慰霊式。
京都大学の職員や遺族などが花を手向けました。
【京都大学大学院・伊佐 正 医学研究科長】
「(終戦)直後に現地に入ることはリスクを伴うことであると思う。痛ましいことです。言葉に表せないような痛切な思いを感じる」
『それは原爆以来、』
『荒れ狂う瀬戸内海がシブキをあげている』
『家はパリパリと裂け出した』
廿日市市大野。80年前に広島を襲った「枕崎台風」の被害があった場所の一つです。
今月13日に行われた10年ぶりとなる慰霊式。
京都大学の職員や遺族などが花を手向けました。
【京都大学大学院・伊佐 正 医学研究科長】
「(終戦)直後に現地に入ることはリスクを伴うことであると思う。痛ましいことです。言葉に表せないような痛切な思いを感じる」
1945年8月6日、原爆投下によって焼け野原となった広島。
廿日市市にあった「大野陸軍病院」には多くの被爆者が運び込まれていました。
京都大学は原爆の影響調査と被爆者を治療するため医学部の教授陣を中心とした調査班を広島に派遣していました。
悲劇が起きたのは原爆投下から一カ月あまりたった9月17日。
京大の調査班が滞在していた「大野陸軍病院」は豪雨で発生した土石流で崩壊し、患者や調査班の医師などあわせて156人が犠牲に…。
県内では、およそ2000人がなくなりました。
原爆投下後の広島に何が起きていたのか―
広島市中区にある「江波山気象館」原爆の被害を受けた後も観測を続けた職員の記録がいまも残されています。
廿日市市にあった「大野陸軍病院」には多くの被爆者が運び込まれていました。
京都大学は原爆の影響調査と被爆者を治療するため医学部の教授陣を中心とした調査班を広島に派遣していました。
悲劇が起きたのは原爆投下から一カ月あまりたった9月17日。
京大の調査班が滞在していた「大野陸軍病院」は豪雨で発生した土石流で崩壊し、患者や調査班の医師などあわせて156人が犠牲に…。
県内では、およそ2000人がなくなりました。
原爆投下後の広島に何が起きていたのか―
広島市中区にある「江波山気象館」原爆の被害を受けた後も観測を続けた職員の記録がいまも残されています。
【広島市江波山気象館・脇阪伯史 主幹学芸員】
「これが天気図としては広島に一番近い位置に台風が描かれている天気図になります。九州に(台風の)中心はあるのですが、この後徐々に広島に近づいてくる状態」
巨大台風の接近にともない、危険な状態が迫っていました。
【広島市江波山気象館・脇阪伯史 主幹学芸員】
「ここの風が強かった部分が午後10時ごろで、(雨量は)午後9時から午後10時の1時間で雨が多く降っているので、こういった部分が台風の影響としては非常に大きかったのではないかなと。台風の特徴で近づいていけば急激に気圧が下がっていくということもはっきりと見てとれる」
17日の午後10時半に記録された風速は24.0メートル。
気圧は961ヘクトパスカル。
本州に巨大な台風が迫っていたことがわかります。しかし、原爆投下後の広島は致命的な大きな問題を抱えていました。
【広島市江波山気象館・脇阪伯史 主幹学芸員】
「情報を伝える手段がまだ復旧していなかったことが大きかったのではないか、大きな台風が近づいてくるという情報を得ることができず、対策をすることもできなかった。それが大きな災害を引き起こした原因になるのではないかと思います」
原爆により通信網が断絶され台風接近の情報は住民に知らされることはほとんどありませんでした。
「これが天気図としては広島に一番近い位置に台風が描かれている天気図になります。九州に(台風の)中心はあるのですが、この後徐々に広島に近づいてくる状態」
巨大台風の接近にともない、危険な状態が迫っていました。
【広島市江波山気象館・脇阪伯史 主幹学芸員】
「ここの風が強かった部分が午後10時ごろで、(雨量は)午後9時から午後10時の1時間で雨が多く降っているので、こういった部分が台風の影響としては非常に大きかったのではないかなと。台風の特徴で近づいていけば急激に気圧が下がっていくということもはっきりと見てとれる」
17日の午後10時半に記録された風速は24.0メートル。
気圧は961ヘクトパスカル。
本州に巨大な台風が迫っていたことがわかります。しかし、原爆投下後の広島は致命的な大きな問題を抱えていました。
【広島市江波山気象館・脇阪伯史 主幹学芸員】
「情報を伝える手段がまだ復旧していなかったことが大きかったのではないか、大きな台風が近づいてくるという情報を得ることができず、対策をすることもできなかった。それが大きな災害を引き起こした原因になるのではないかと思います」
原爆により通信網が断絶され台風接近の情報は住民に知らされることはほとんどありませんでした。
被害のあった大野陸軍病院は渓流の横に位置し、発生した土石流によっておよそ10メートルえぐられた箇所もあったということです。
被爆者の治療や調査にあたっていた京都大学の調査班も突然の災害に巻き込まれ11人が犠牲になりました。
亡くなった調査班の一人、杉山繁輝教授は現場の支援と血液の研究をしていました。
家族思いで研究に熱心に取り組んでいたといいます。
孫の隆さん、慰霊式に参列するのは10年ぶりです。
【祖父亡くした杉山隆さん】
「想像するととてもつらい気持ちでいっぱいになる。何年たっても私たち家族にとっては祖父も苦しかっただろうし、悔しかっただろうと思いますね。京大の調査団の崇高な思いやこういうことがあったというのは皆さんに知っていただきたい」
また同じく調査班として広島を訪れていた眞下俊一教授。孫の大井知世さんは祖父のことをこう振り返ります。
【祖父亡くした大井千世さん】
「祖父は航空医学を研究することも決まっていた。だから志半ばで亡くなった。『医は仁なり』という言葉を祖父が一生大事にして、それを実践してきたと思うので、そういう使命感に燃えて救ってあげたいという気持ちでこの土地に赴いたと思う。心からいつも冥福を祈っています」
被爆者の治療や調査にあたっていた京都大学の調査班も突然の災害に巻き込まれ11人が犠牲になりました。
亡くなった調査班の一人、杉山繁輝教授は現場の支援と血液の研究をしていました。
家族思いで研究に熱心に取り組んでいたといいます。
孫の隆さん、慰霊式に参列するのは10年ぶりです。
【祖父亡くした杉山隆さん】
「想像するととてもつらい気持ちでいっぱいになる。何年たっても私たち家族にとっては祖父も苦しかっただろうし、悔しかっただろうと思いますね。京大の調査団の崇高な思いやこういうことがあったというのは皆さんに知っていただきたい」
また同じく調査班として広島を訪れていた眞下俊一教授。孫の大井知世さんは祖父のことをこう振り返ります。
【祖父亡くした大井千世さん】
「祖父は航空医学を研究することも決まっていた。だから志半ばで亡くなった。『医は仁なり』という言葉を祖父が一生大事にして、それを実践してきたと思うので、そういう使命感に燃えて救ってあげたいという気持ちでこの土地に赴いたと思う。心からいつも冥福を祈っています」
慰霊式の翌日に行われた講演会では60年にわたり気象と災害の問題を追いかけてきた作家の柳田邦男さんが継承の重要性を訴えました。
【柳田邦男さん】
「過去に起こった災害とそれを重ね合わせてここで何が起こりうるだろうかという最悪の事態を考える。地域の特性というのを自分なりのものにしていく。それが大事」
碑に刻まれた京都大学の調査班11人が残した思いは原爆投下後の悲劇と災害の教訓を紡いでいきます。
【柳田邦男さん】
「過去に起こった災害とそれを重ね合わせてここで何が起こりうるだろうかという最悪の事態を考える。地域の特性というのを自分なりのものにしていく。それが大事」
碑に刻まれた京都大学の調査班11人が残した思いは原爆投下後の悲劇と災害の教訓を紡いでいきます。