原爆の爪痕残る「広島逓信病院旧外来棟」熱線で火傷負った人達を懸命に治療 あの夏の日…祖父の記憶を辿る

7/25(金) 20:30

まもなく80年目の8月6日を迎えます。番組でも「つたえる・つなげる」をテーマに特集をお伝えしていきます。
今回は、改修工事が計画されている被爆建物「広島逓信病院旧外来棟」に注目します。

【檜井孝夫さん】
「こんな夏の1日だったんでしょうね。雲1つない」

白い建物を見上げる一人の男性。

「80年って長いようであっという間ですね」

医師として働く檜井孝夫(ひのい たかお)さんです。

その視線の先にあるのは…
広島市中区東白島町にある「広島逓信病院旧外来棟」

1935年に「広島逓信診療所」として建てられ、市民のための病院としてその役割を果たしてきました。

いま、その建物は当時のことを伝える被爆資料室となっています。

【檜井さん】
※壁のタイルを触って
「当時のままですよね。これ」
「たぶん朝はこんな感じで朝からセミがミンミン鳴いている中で、その瞬間が訪れたんだろうなと思いますから」

1945年8月6日。爆心地からおよそ1.3キロメートル離れた場所にあったこの建物は、爆風や火災により特徴的だった大きな窓ガラスは割れ、医療器具のほとんどを失いました。

当時、入院していた患者は全員疎開していましたが、病院で働いていた職員のうち5人が死亡、32人がケガをしました。

当時、広島逓信病院で薬局長として働いていた檜井(ひのい)さんの祖父・暁夫(あけお)さん。

【檜井さん】
「祖父はたまたまその瞬間地下室にいて来談者と話をしていたということで無傷で済んだらしいですね、奇跡的に」

その後、広島市内を襲った火災により当時の院長、蜂谷道彦さんは逃げ場を失ったといいます。

【檜井さん】
「院内を見回られていたとき病院に火の手が移ってきて、蜂谷先生は火に囲まれてしまったんですよね。これでもうあわやというときに、蜂谷先生のところにきて肩に担いでですね、蜂谷先生を病院から救出したという」

その後も暁夫さんは負傷した人のために懸命な活動を続けました。

【檜井さん】
「焼けただれたところに何か薬を塗ったりガーゼをつけたり、それを交換しないといけない大量のガーゼ類といった衛生材料が必要だったのではないかと思うが、それを色々なところからかき集めるんですね。やけど・熱傷を負っている人たちの治療のために、とにかくできることを当時やったのではないかという風に思う」

物言わぬ証言者としてあの日の記憶を伝えてきた病院。
広島市は「広島逓信病院旧外来棟」を原爆資料館の付属展示施設の1つとして平和の発信を強化するとしています。

【原爆資料館・落葉裕信 学芸係長】
「ここが当時の雰囲気を感じていただけるところ。タイルは被爆当時のタイル。一番中心になってくるのは被爆のときの状況だと思いますので、その部分を今よりも詳しく被爆時の状況であるとか、その後の救助活動の様子など、そこに関わった人たちに焦点を当てながらより深く展示ができればいいと思う」

これまで使っていなかった部屋も活用し、3Dのガイダンスシアターを導入するなど展示内容が強化されます。

焼野原となった広島で「助け」を求める多くの人を懸命に「治療」した医療関係者たち。いま、医者として働く檜井さんにもその思いは繋がっています。

【檜井さん】
「時代の重みというか80年経ってもこの中は変わっていないので、特に人の命を救ったり、そういうやり取りをしていた場所がきっちりと残されている。当時のままのものが残されていたということもある。これはちゃんと後世に残していきたい」

まもなく被爆80年を迎えるヒロシマ。
静かに佇むその建物にゆっくりと耳を傾けるとその思いを聞くことができそうです。