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被爆75年「原爆市長」が語るヒロシマ【後編】

08/11(火)  14:31 掲載

半世紀の時を超え、被爆75年の今年新たに見つかった「原爆市長」の映像や肉声。毎年8月6日に開催される平和記念式典の元となった、1947年に開催した平和祭について次のように述べています。
【音声:広島市・浜井信三元市長】
「昭和22年頃になりましてようやく市民が、当時、虚脱状態、ふぬけのようになって何をしらいいのか分からないような状態で、市民は過ごして来たんですけども、ようやくそういった虚脱状態から市民が目覚め始めた時に平和祭をやろうよ、平和式典をやろうと、そうして私たちの体験を全世界の人に伝えて、そして二度とこういったことが起きないように、私たちは努力しなきゃいかんじゃないかというような声がですね、市民の中から湧きあがって来ました。こういうことはじっくりと準備してかからならないと、かえって世界の物笑いになることもあるから、もう少し落ち着いて考えていこうじゃないかと、小賢しくも私どもはそういう主張をしたんですけれども、市民の方はそれを許さない、とにかく、いけなければやりながら直していけばいいんだと、とにかくやろうということで、第一回の平和式典を昭和22年の8月6日にやったわけです、それはもう、全く原爆を体験した、そして生き残った市民の実感だったと思う、どうしても我々の使命だと、そうすることは生き残った我々の使命なんだというふうなことで、市民意志が結集されたのがこの平和祭だったんです」
先月下旬、現像した映像を浜井さんの長男・順三さんに見てもらいました。
【長男・浜井順三さん】
「一番左が僕だと思います」Q:いくつくらいの時?「おそらく大学に入ったか、そこらじゃないかと思いますけどね。妹だと思います、それから母親、父親、ほれからこれも妹だと思います。昭和30年代くらいじゃないでしょうか、大学に入ったか、そこらじゃないかと思いますけどね」
その後、私たちは順三さんと平和記念式典を間近に控えた平和公園を訪れました。
【音声:長男・浜井順三さん】
(Q:このあたりが動画で見たあたりですね)「そうですね、こういう方向で写真をとって、そうそうそうそう」
順三さんはあの日と同じ場所を探します。
【長男・浜井順三さん】
「この辺かもわからん、この辺だね。やっぱり、木が大きくなっているよね、すごく」(Q:時の流れは感じますか?)「感じますね、一つ一つが木も大きくなっていますしね、70年経って、本当に見違えるようですよね」
浜井さんは広島平和記念都市建設法の成立に尽力し、平和記念公園を建設するなど広島の復興と平和活動に尽力しますが、1968年に62歳の若さでこの世を去りました。肉声の中で浜井さんは科学の進歩に合わせて核兵器が更に恐ろしいものになるのではないかと危惧しています。
【音声:広島市・浜井信三元市長】
「私たち当時直観したんですけれども、もうこんな兵器ができた以上、もう戦争は二度とやったらいけんだろうと、おそらく広島で使われた爆弾は、大した大きな爆弾じゃなかったに違いないけれども、もう人知を無限に発達していくわけですから、生産力や科学がどんどん発達していくと、それをどんどん殺戮や破壊に使っていくということになると、どんなものができてくるか分かりゃあしないと、いうことを私ども当時の災害で直感いたしました。人道的に許しがたい残酷なものであり、非道なものであるということはすぐ我々も感じたわけですけど、それ以上に将来のことを考えた場合に科学兵器というものが、どんどん発達していけば結局人類は兵器のために自殺しなきゃならん時がくるんじゃないかということを痛感したわけです」
長男の順三さん、父親に言われた言葉が今も強く残っていると話します。
【長男・浜井順三さん】
「75年草木も生えないだろうと言われるようながれきの惨状の絶望の中から、何としても広島を蘇らせるんだということを子供(私たち兄弟)に言い聞かせていたことを未だに強く頭に印象に残っている。広島は世界に向かって伝えていく使命と責務がある都市であるということ、市民一人ひとり含めて、そういうことが今、ほとんど知られなくなってきていると思うので、これを何とか少しでも伝え継いでいかないといけないと思う」

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