夢の跡を訪ねる「ヒロシマナタリー」 広島県民の心に残る伝説の遊園地 『ひろしま棚さんぽ』

7/11(金) 20:00

『ひろしま棚さんぽ』です。
今回は子どもたちの夢の国シリーズ第2弾、広島の人たちに愛された伝説の遊園地のこん跡を探します。

【塚本恋乃葉さん・棚田徹さん】(@広島県廿日市市阿品公園展望台から)
「あ!見えました」
「あー、見えたね」
「ヒロシマナタリーの跡地で今ショッピングセンターになって」
「そうだね~」

ヒロシマナタリーは1974年に宮島の対岸、当時の廿日市町にオープンした遊園地。
名前のゆかりともなった帆船ナタリー号や東洋一とも称された観覧車、さらにはプールやジェットコースターなど広島の遊園地といえば、ナタリーといわれるくらい広島県民にとっては伝説の遊園地だったのです。

【塚本恋乃葉さん・棚田さん】
「ヒロシマナタリー行かれたことありますか?思い出…」
「ありますよ!1回ロケで行きました。ハハハ…」
「ロケでですか?薄!」
「それで…ごめん。ぐるっと回るジェットコースター1回乗って、帰りました」
「だけですか?薄すぎてもうだめです。だめです」
「すいません。申し訳ない」
「そんなダサっ…」
「そんなダサいって今言いました?そんなダサイ…」
「そんな棚田さんのために今日は私の独自のネットワーク、恋乃葉独自のネットワークでよく知る方を調べてきたので、その方に会いに行きましょう」

恋乃葉さんが探し出したというのが、阿品地区に住む小松さん。
当時の風景を趣味の絵に描き留めていました。

【阿品地区に住む 小松隆文さん】
「えー!まだこんな田舎があるんかと思って、ちょっと絵に収めておこうと思って」

小松さんの絵には昭和50年代、1970年代の阿品地区の様子が描かれていました。
その中には、もちろんナタリーの様子も…

【小松隆文さん・塚本恋乃葉さん・棚田さん】
「明らかにナタリーですね、これね」
「ええ、ナタリーでしょう」
「観覧車」
「で、ほとんど家がありませんからね」
「本当ですね。今この辺もう住宅びっしりですもんね。この辺にお住まいなんですか?」
「ええ、私がこのあたりに住んだのがですね、昭和52年からですね」
「昭和52年」
「そのときはもう、ナタリーがありました」
「ありました」
「ええ」
「こちらが当時のナタリー」
「それ何なの?」
「賑わっていましたか?」
「家にいてもね、このジェットコースターのお客さんが降りる時にね、キャーっていうのが」「悲鳴が」
「家まで」
「聞こえていました?」
「うん、聞こえました。『あー、今日はお客さん多いな』とかね。そんなのがすぐ…」
「聞こえましたか…」

さらに当時をしのぶ、今となっては貴重なチラシを見せてくれました。

【小松隆文さん・塚本恋乃葉さん・棚田さん】
「よく残っていましたね、このチラシが」
「綺麗なまま」
「で、これナタリー、ナタリー号が見えますね」
「はい。で、これが阿品台ですね」
「すごい広いですね」
「多分12,500人の団地という…」
「おー、一気に増えましたね」

阿品地区は山陽本線と広電宮島線が通り交通の便がよかったため、1965年ごろから次々に住宅団地が開発されると、のどかな田園風景は一変。
1974年には西広島バイパスが終点・地御前まで延びて、ヒロシマナタリーも開業。
1980年代には日本一人口が多い町だったこともあるんです。

【小松隆文さん・塚本恋乃葉さん・棚田さん】
「ナタリーの一番の思い出ってあったりしますか?」
「一番の思い出はやっぱりプールですけどね。親子4人でね。浮き輪に大人も浮き輪にのって一緒にぶら下がったりしながら、それが一番…それからね、昭和53年だったと思いますが、私は歌が好きで。ザ・ベストテンという番組を良く観てたんですけども、ナタリー号の上の方だったかな、キャンディーズっていうのが」
「キャンディーズ!が中継していたんですか?」
「『微笑みがえし』っていうのをね。食事していたのですが、『あ!っ』とすぐ飛んで行ってね、そこまで…」
「見に行った?」
「見に行ったんですがね、ちょうど演奏が終わって…もうわかりませんでしたね」

そして1996年…バブル崩壊の波に飲み込まれ、開業から22年でヒロシマナタリーはその歴史に幕を降ろしました。

そして1996年…バブル崩壊の波に飲み込まれ、開業から22年でヒロシマナタリーはその歴史に幕を降ろしました。

【小松隆文さん・塚本恋乃葉さん・棚田さん】
「じゃあこれがなくなるって聞いた時は寂しかったですね…」
「寂しい、やっぱり寂しいですね」
「広島を代表するね、遊園地だったですからね」
「こん跡とか名残とかは今残ってるわけですか?」
「今そこにフジグランがありますよね」
「ありますね」
「フジグランの建物をちょっと下側に出ると羅針盤か、なんかね」
「羅針盤?」
「船の?」
「船の」
「残ってるんですか?」
「残ってますよ」
「行ってみたいですね」
「行ってみたい」
「行きましょう、行きましょう」
「ですけど…ちょっと私はお仕事の時間が・・・行けないんです」
「あ、そうなの?」
「なので私の分まで」
「分かりました」
「すいません、お願いします」

ということで恋乃葉さんとはここでお別れして、小松さんが言っていたショッピングセンター周辺へと向かいます。

【棚田徹さん】
「右手の方がフジグラン。マンションに棕櫚の木とかあって、ちょっと南国というか、そういう異国風な情緒がありますよね。あー、これ名前書いてありますよ、マンションの…ナタリーマリーナタウン シーマスト。これがだから船で言うマストのマンションになるという、そういうイメージが残っているということですよね。

すごい公園があった!見て、ナタリーパークですよ…面影がない。これやっぱり船の部品の一つ欲しかったですね。

でもあえて言えば、あのベンチがそういう感じなのかな?マリーンな感じ、ブルーでね」

街のナタリーの名残りを感じながらショッピングセンターへ到着。
そのこん跡というのが…

【棚田徹さん】
「あー、これですね…これですよ。あるある!ナタリー。こういう船がナタリーのど真ん中に置いてあったわけですよ。これ、煙突?を残しているんですね。どの部分なんだろうな」

ナタリー号は1937年に製造され、もともとは洋上の社交場として地中海で活躍していたエンジン付きの帆船で、全長は54m。
その後ヒロシマナタリーのシンボルとして迎えられ、流れるプールの中央に飾られていました。
閉園後ナタリー号の部品はアートとして、フジグランナタリーの敷地の中に飾られ、ナタリー号がこの地にあったことを今に伝えています。

【フジグランナタリー 安川敬 店長・棚田徹さん】
「店名の正式な名称はフジグランナタリー?」
「はい、フジグランナタリー」
「ナタリーという名前が入ってるんですね」
「はい。当時ここにナタリー遊園地がございましたので」
「だからその時の記憶を留めていこうという…それはフジグランさんの心意気と言いましょうかね」
「そうですね、やはり地域に今まで愛されてきたシンボルをですね、しっかり残していこうと。そういった思いで」
「本当にナタリー一色なんですね、この辺りは」
「そうですね、ここの開発するときにですね、このショッピングセンターとマンションと一体で開発していこうということで、マリーナストリートということで、これをストリートと言うんですけれども、こういう風に全体でナタリーということを残しております」
「なるほど」
「いつまでもここに遊園地があったと思ってもらえるんじゃないかなと思っております」

アートに生まれ変わったナタリー号はこれからもフジグランナタリーで語り継がれます。

<次回は・・・>

【棚田徹さん】
「広電の楽々園駅の前にやってまいりました。ここはですね。私は多分、小さい頃に行ったこの写真が一枚あって、その頃の遊園地がこの向こうにあったはずなんです」

次回は、少年時代の棚田さんが行っていた?戦前から存在する電車で行ける遊園地とは?さらにその遊園地の貴重な動画も発見しました。