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新潟・直江津捕虜収容所跡地=平和公園訪問記

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昨年12月の訪豪ツアー直後、股関節が痛い、首筋が重い。旅はしばらくご免だ…と思っていたが、2か月半後の2月下旬に新潟を訪れることになった。ツアーでは日本兵捕虜の収容所があったカウラを訪れたが、新潟県上越市にはその対極、オーストラリア兵捕虜の収容所があった。上越日豪協会は、捕虜収容所の縁でカウラと交流を続けていて、この度のカウラ訪問にあたって近藤芳一会長に相談していた。帰国後に御礼の連絡をしたところ「当地へも是非」とお誘いを受けた。折角なので「捕虜の方の追体験をするなら厳寒期に」と決めて現地へ向かった。

北陸新幹線の上越妙高駅で近藤会長に出迎えていただき、平和公園として整備されている収容所跡地へ向かう。例年この時期は1メートルを超える積雪があるそうだが今年は少ないという。それでも、駐車場の隅や空き地には除雪された雪が人の背丈以上に積まれていた。

平和公園は関川の河口近くにあった。目と鼻の先にある日本海からは、息も出来ないほど間断なく突風と強風が吠え唸る。防波堤を叩きつけ大きく白く盛り上がる日本海の荒波には恐怖を覚える。当時の写真を見ると、収容所は薄い板壁の粗末な建物で隙間風は想像に難くない、暖房も無かっただろう…温暖な国から連れてこられた300人の豪州兵たちは、どんな思いで過ごしたのだろうか。想像を絶する厳しい気候に身も心も凍てついてイマジネーションも働かない。軽々しく「追体験」などと思ったことが恥ずかしい。

公園には、日豪それぞれの慰霊碑が並んでいる。豪側は、十分な食糧もないなか強制労働に従事して衰弱死した60人の慰霊碑。日本側は、終戦後の裁判で責任を問われ処刑された8人の職員の慰霊碑。どちらも戦争の犠牲者である。「死者に敵も味方もありゃせん」と、収容所のそばの寺の住職が豪州兵の遺骨を引き取って本堂に安置したというエピソードは、悲劇の中での一筋の光明である。

公園では毎年8月に「平和の集い」が開かれ、地元の児童文学作家 杉みき子さんによる詩が朗読されている。


鎮魂
杉 みき子

ある日 歴史の荒波にのみこまれるまでは
やさしい父
たのもしい夫
心熱い恋人
善良な市民であったひとりひとり
互いになんの恨みもないそのひとびとを
憎み合わせて傷つけ合わせ
ついに死にいたらしめたもの

日の輝く故郷の草原をしのびながら
雪つめたい異国にいのち果てたひとびとを
国家の罪を一身に負うて
法の名のもとにいのち絶えたひとびとを
その過酷な運命に追いこんだもの

それが戦争

暗黒の日々のなかで
---死者には敵も味方もありゃせん---
かすかにともされた友愛の灯を
この地に あたらしくよみがえらせ
いま 声となった平和のうた
いま かたちとなった平和のねがい

天女の奏でる笛の音よ
直江津の浜にうちよせる波のように
絶えることなくひびいておくれ
何十回も何百たびも
ユーカリが芽吹いて さくらが咲いて
かつての悲しいできごとが
遠い遠い昔語りになる日まで


資料館の中で会員皆さんの温かい歓迎を受けた。元捕虜や遺族が訪れるたびに交流を積み重ね友好を築き、収容所跡地が平和公園として整備された過程を拝聴した。元捕虜や日豪双方の遺族の複雑な思いもあって一筋縄ではいかず困難を極めたことを、会員の皆さんが交互に語ってくれた。とつとつとした穏やかな語りではあったが、熱い気持ちで関わってきていることが伝わってきた。

公園の中には広島市から寄贈された被爆アオギリ2世もすくすくと育っていた。平和を希求する街同士の日豪協会として、国内での交流も育んでいきたい。
(事務局・笠間)

追記:文中、児童文学作家 杉みき子さんは、小学5年の国語教材「わらぐつの中の神様」の作者として知られています。