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戦後77年、初めて被爆体験を証言 兄に背負われて避難「戦争は、最後は市民が泣く」

8/2(火)  17:53 掲載

8月6日に向けたシリーズ「あの日をつなぐ」。戦後77年が経過し、初めて被爆体験を語る決意をした男性の姿を紹介します。

竹本秀雄さん80歳。

(竹本秀雄さん)
「兄ちゃん、ばあちゃん頼むね。ありがとね。兄貴の辛そうな目と私の目と、全然ね、私は無邪気で何も分からずに」

頭に包帯を巻かれ兄に背負われた幼い少年。竹本秀雄さん当時3歳と兄の定男さん(11)です。

(竹本秀雄さん)
「兄貴ありがとうって。それしかないです」

当時、竹本さん兄弟さんは爆心地からおよそ1キロの広島市中区大手町の自宅で被爆。倒壊した家の下敷きになっていたところを兄の定男さんが助けてくれました。この写真は、戦後、原爆の記録映画を見た親戚が2人が写っていることに気付き映写技師に頼み込んでフィルムを譲り受けたものです。

(竹本秀雄さん)
「訳を言うたら。そのフィルムを3コマ切ってくれちゃったんです。今じゃ考えられんでしょ。涙が出るんじゃけどね」

竹本さん一家は、戦後、広島を離れ、九州の砕石所など各地を転々とし、苦しい生活を余儀なくされました。原爆で背中に火傷を負った母親は、生涯にわたり、体の痛みを訴えていたといいます。

(竹本秀雄さん)
「ずっと汗が出たら痛い、寒かったら痛い、ずっと痛い痛いと言っとりました」

あの日、命を救ってくれた兄、定男さんは、23歳の時、交通事故で亡くなり、秀雄さんの人生も大きく変わりました。

(竹本秀雄さん)
「(兄が)行かしてやるから高校行けと、で進学組入っとった。で、亡くなったもんですから、それもパアになってまた途中から就職組に。あの時はやっぱり情けなかったですね。
子ども心にね」

時代に翻弄された人生。ずっと心の奥にしまったままでした。先月10日、東広島市の黒瀬生涯学習センターで開かれた「原爆展」。竹本さんが会場を訪れました。この日、はじめて、77年前の被爆体験を語ることになったのです。証言を勧めたのは50年来の親友、北川純彦さん。

<講演会>

(北川純彦さん)
「竹本さんが“北川君、あれ僕で”言われて“えー”ってびっくりしまして。原爆を伝える番組に映る少年が竹本さん兄弟と知ったのは今からおよそ50年前でした。

(北川純彦さん)
「涙が出ました。この元気な姿をね、やっぱし皆さんに見てほしいという私の思いがやっとかなえられた。いうことです。54年間ほんまに待ってました。ありがとうございました」

北川さんが被爆体験を勧めても竹本さんは、思い出すのが辛いと言って断り続けてきました。しかし、北川さんの熱い思い…。そして、ロシアによるウクライナ侵攻。竹本さんは、原爆展に兄弟の写真を提供しました。さらに…。

(竹本秀雄さん)
「背負われているのは私」

初めて被ばく体験を語ることも決意したのです。

(竹本秀雄さん)
「兄貴には頭が上がりません。だけどずっと暮らしとる中で兄貴が“お前を助けた”と一言も聞いたことがないんです。今ウクライナもそうですし、ほとんどの国民が泣いてます。最後はやっぱり市民が泣くんだなと。だから戦争はいけません。本当に戦争はいけないと思います」

竹本さんは、人生を通して感じた平和の大切さを訴えました。そして未来を生きる子どもたちに語り掛けました。

(竹本秀雄さん)
「お友達をいじめたり、まずケンカをしないように。家の中でもやさしい、やさしい人になってください。それが最後には戦争を無くす基盤になると思います」

(証言を聞いた小学生)
「これからも学校とか習い事とかでみんなと仲良くしていきたいし、みんなにも被爆とか原爆のこととかを知ってほしいと思いました」

(北川純彦さん)
「ものすごく穏やかだったね、やっぱし。肩の荷が下りたんじゃないですかねえ」

(竹本秀雄さん)
「なんかあのすっきり、呪縛が落ちた解けた、軽くなった気持ちですね。良かったなと思ってます」

これからも被爆証言を続けていこうと静かに心に決めています。ありがとう。本当にありがとうございました」

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