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被爆60周年、シドニー在住の絵本作家・森本順子さんが寄稿

オーストラリアでは毎年8月6日に『ヒロシマデー』が開かれていることをご存じでしょうか。13歳の時に被爆し、現在シドニー在住の森本順子さんは今年初めてイベントに招請され参加しました。私たちの故郷ヒロシマを原点に平和を考えるオーストラリアの人々に、森本さんはどんなメッセージを発したのでしょうか。

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「オーストラリアで思う60年前のヒロシマ」森本順子

思い返せば、あの地獄の中を生き延びて早や60年。今年は、被爆還暦年とも言えよう。

あの日、前日からの下痢続きでお腹に一物もなかった私は、学校を欠席し爆心地から1,700メートルの自宅にいた。当然、家は全壊し焼失した。疎開作業で雑魚場町に動員された先生と生徒たちは悲惨な状況で、即死した者、重傷を負って逃げ惑い収容所で息を引き取った者、折角 家にたどり着いたのに数日後、ひと月後、10年後、そして20年も後、原爆症を発症し亡くなった者など、総計360名。今は母校(女学院)の校庭の慰霊碑にその名を連ね、静かに眠っている。

私は中学の美術教師となったが、50歳で人生のターニングポイントを迎え、「教え屋から創作側へ戻りたい」と意を決して、姉の住むオーストラリアへ息子と移り住んだ。思いがけずも絵本の道に入ったお蔭で、長年思い続けてきた「被爆体験を次世代に伝えておくこと」という、生き残れた者としての義務を「マイヒロシマ」と題する絵本で実現。(陰に、編集長の強い信念と並々ならぬ努力があったと、後で知った) 以来、こちらの学校では平和教育の一環としてこの本が盛んに使われている。学校に招かれて訪問すると、予め学習している生徒たちの戦争や平和への関心は強く、質問攻めにあうこともしばしばである。(中略)

さて、『ヒロシマデー』のことである。ここシドニーでは、先生たちほかの団体により、毎年8月6日の原爆投下の日を中心に市内でピースラリーが行われている。「Never again Hiroshima! Never again Nagasaki!」プラカードを持った大勢の先生や青年男女、子どもも一緒に大声で唱えながら行進する。地面にはチョークで、被爆死した人型がたくさん描かれている。

なぜこの国で「ヒロシマ」なんだろう?移住してきた頃、驚いた。感心もした。そして納得した。この国の内陸部で以前、イギリスにより核実験が行われ、原住民たちや豪州兵たちが被爆した事実がある由。まさに他人事ではないのである。集団行動の苦手な私は、これまで参加したことがなかった。60周年の今年、スピーチを依頼された時に考えた。「私に、次の70周年はないに違いない。初めての最後、被爆者平均年齢73歳の私の思いを語っておこう」と。
10分そこそこのスピーチの最後のくだりを、ここに紹介させていただこう。
「現代科学の力は、様々な力を人類に与えました。そして人類は、地獄を作る力も手に入れたのです。私は、テレビや新聞で核兵器のことを“大量破壊兵器”と呼ぶのを、いつも誤魔化しだと思っています。なぜなら、尊い人間の命を奪うことを“破壊”とは言わないはずだからです。従って核兵器は本来、“大量殺人兵器”と呼ばれるべきです。兵士ではない、戦闘していない人たちの命を無差別に奪う“殺人兵器”なのです。その上に、この“殺人兵器”は、長い年月、悪魔のように人間の体内に住み続け、命を蝕み続けるのです。こうした“殺人兵器”を使用することは、『戦争だから』という言い訳では説明がつかない。これは“犯罪”です。人間性そのものを脅かす犯罪なのです。(中略)

あの戦争から60年が経ちました。しかし、私たちの平和で豊かな生活の陰には、今もあの地獄兵器が横たわっているのです。地獄兵器は今も世界のどこかでチクタクと時間を刻んでいます。私は『地獄を作る力は絶対に要らない!』と、人類が決意する日が来ることを強く期待します。」